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な ま え:TAKAHASHI Akinari
いどころ:Kyoto
なりわい:graduate student
ま な び:sociology or social systems theory

2010年12月17日金曜日

旧いヨーロッパからの決別

ルーマン『社会の社会』刊行当時、独紙『ツァイト』に載った書評の私訳。既出御免。


おもに近代社会論としての機能分化について書いてある。それと絡めてメディアや進化論についても軽く触れられている。

筆者のオリジナリティとしては、ルーマンの理論的態度を「ストア主義」と批判してイロニーを対置しているところ。

機能分化社会という近代観についてはルーマンに同意しているわけだけど、そのあまりの完璧主義ゆえに進化論的視点を導入して、システムの学習可能性(に賭けてみること)に対して目をつぶっているんじゃないかと批判したいらしい。

ルーマンのラディカリズムに対する距離の置き方の一例にはなるかと思います。
有効な解毒剤になるかどうかはわかりませんが。


誰が書いているのかはわかりませんでした(ヴィルケが書いててもおかしくない文章ではある)。
独言(それにしてもハーバーマスはルーマンを論じる際のだしによく使われるなw)


【訳について】
・モダニティ(die Moderne)という訳語が浮いているのは訳者不足のせいです。ご容赦。
・できるだけ「~的」を避けようと頑張ってもなかなか難しいところもありますね。

けっこう意訳してるし誤訳もあるかと思いますので、原文参照したい方は下記リンクへ




旧いヨーロッパからの決別

モダニティの危機と観察者のおちつき
-ニクラス・ルーマンの記念碑的研究『社会の社会』

1969年、ビーレフェルトの社会学教授の職を始めるにあたって、ニクラス・ルーマンは研究プロジェクトについて書くよう求められた。

「私のプロジェクトは次のような内容であった。社会の理論。所要期間:30年。所要経費:なし。プロジェクトの難しさは所要期間の点では現実的に見積もられていた」。結局、計画よりも二年早く、ルーマンはプロジェクトを終えたことになる。

それは今世紀でもっとも重要な社会学者による偉業[opus magnum]だ。

二巻になる著作『社会の社会』の中で、ルーマンは旧いヨーロッパに別れを告げ、プラトンに始まりヘーゲルに終わる伝統から一線を画している。モダニティはそのような大地へ還ることを拒絶するところにアイデンティティをみいだしているのだ。

わたしたちをヨーロッパという旧世界から切り離す途方もない差異が、ルーマンの大部の作品の中心をなしている。社会的「階層」から機能分化への社会の転換が、多様すぎて比較できないような状況をうみだしたのだということを、彼はくりかえし示している。

それにもかかわらず比較が求められ、外からの視点が必要とされたのだった。つまり社会進化の理論が求められた。そのようにして、人間、政治、そして社会という概念を根本的に新しく解釈するよう強いているのは、システム理論ではなくモダニティ自身なのだ。

今や文言は旧いままであるにもかかわらず、その意味は違っている。ギリシャ哲学の偉大なる日々より、人間とは生ける存在だった。それぞれの個体はよくあるいは悪く死んでいくのだが、それゆえにときに完全な姿でときに不完全な姿で、種という存在を表している。同様に自然界には食べられるリンゴと食べられないリンゴがある。そのような場合には、完全な個体が不完全な個体を支配するという生き方が理にかなっているのだ。旧いヨーロッパの秩序のなかでは、あらゆることが次のことに基づいている。つまり、出自と教育によって異なる「理性のわけまえ」(アリストテレス)が、頂点に、貴族に、市民に、大家族の主人に、理性と徳がより集中して存在するようなしかたで分配されており、その一方で、頂点と中心から離れるのに比例して(庶民、よそもの、女性、召使や奴隷のもとでは)より少なくなっている、ということにである。理性の自然な秩序のなかでは、個々の人間は政治的共同体の部分なのである。

このような社会には堕落という大きな問題はあるが、統合という問題は存在しない。

統合の問題は近代になってはじめて現れる。モダニティはもはや人間に頼ることができない。なぜなら、モダニティが人間を自然という理にかなった秩序から解き放ってしまっているからだ。モダニティによって強固な個人へと変えられることによって人間は安定した地位から切り離されていて、人間を階層や身分へ縛りつけ、よりどころを与えていた枷はちぎれてしまっている。こうして社会という概念が変わる。それはもはや生活連関(ビオス)としてではなく、単なる-ここでルーマンは彼の正反対の立場をとるハーバーマスとかちあうわけだが―コミュニケーションを疎通させるシステムとしてのみ捉えられうるのだ。

心的システムと社会システムのこの分離について、システム理論は、社会からの個人の排除であるとしてやや性急すぎるかたちで非難されてきた。性急すぎるというのは、第一に、個人の人格はあいかわらずコミュニケーションの参加者として社会のなかに現れているからだし、第二に、社会の方も個人の自由な空間から排除されているからだ。さらに「人間」という概念とともに「支配」という概念も姿を消している。哲学思想のもっとも高度な主導概念ですら支配階層の政治的エートスによって規定されていたということを、ルーマンはしつこいほど論証している。この点でシステム理論は民主主義と結びついていて、それはほとんど若きマックス・ホルクハイマーのイデオロギー批判の懐疑主義を思い出させるほどだ。いわく「その分野で賞賛されうるような有能などの哲学者のところでも、ひとは社会学者となって、彼らがどのような独自の汚れをうみだしたのだろうかと自問するだろう」。

しかし、システム理論はそのかわりに何をもたらしたのだろうか。ともかくそれは「比較するという新しい理性」であり、自然の無言の声を「聞き尋ねるという旧い理性の立ち位置」へと向かうよう、今や求められている。この「新しい理性」は機能主義の方法へとはめこまれており、ジョン・デューイのようなプラグマティストが「知性」と名づけるものにふさわしい。そのような知性は、とりわけ比較できそうにないようなものを比較する際に驚くべき洞察を行って、その力を示すのだ。

そうして、機能主義の観点の下、愛と貨幣がすっかり比較させられる。愛は貨幣と同様に、コミュニケーションのありそうもない継続をありそうなものにしている。わたしたちはある他人を愛するからこそ、そしてその場合に限って、その人間のまったく謎に満ちた感受性を受け容れる。愛によって、神をも畏れぬ犯罪者、裏切り者、そして国家の敵すらも受け容れられる者となる。アンティゴネーではまだ、自分の兄への誠を弁明するために、愛を引き合いに出すかわりに「国家によって」定められた敬虔の責務を引き合いに出さなければならなかった。このことは、ロミオとジュリエットやボニーとクライドの場合ではもはや明白に問題とはならなかった。ただ与えるがゆえに望むものを得るということを説明するという点で、貨幣メディアは愛と異なるものではない。どちらのメディアにも、それがなければ失敗してしまうであろうコミュニケーションを可能にし、ありそうなものにするという機能がある。

ユルゲン・ハーバーマスはルーマンの理性概念をつねに機能主義的な切り詰めであると批判している。この批判の強みはコミュニケーション的な理性理解にあって、ルーマンの理性理解と同様に、「自然」や「主体」をふたたび用いることなく済ましている。それにもかかわらず、ハーバーマスの批判はあしあとも残さずルーマンのよこを素通りしてしまった。ともかく今では彼は、貨幣や権力のようにもっぱら成果に向けられた仲介メディアと、言語、文字、あるいは印刷のようなコミュニケーションの伝播に特化したメディアを区別していて、自由なコミュニケーションの批判的ポテンシャルを解き放つのは第一に後者のメディアであるとしている。ルーマンですらコミュニケーション的理性という概念なしでは済まないとみえるわけだ。

しかしながら、近代的な自由の利得には決して弁証法的欠陥がないわけではない。個人と社会が互いに踏み込むことによって生じた状況を、ルーマンはほとんどマルクスと同じくらい批判的に書いている。近代社会の機能的な再編成とともにすぐに新しい階級が形成されるということを、彼は正確にみつめている。政治的エリートが「上に」いることがもうずっとなくなっているような社会では、ある者は以前よりも豊かになったり、ある者は貧しくなったりする。(仕事の能力、信用があること、所在上の利点、長くいること、才能などといった)最小の差異から即座に大きな差異が生じ、システムの独自の論理にのっとった処理によってさらに大きくなっていく。

貨幣と教養は貴族の支配に対する市民階級の闘争においてもっとも重要な武器であるが、ルーマンが書いているように、それが「倒錯した選択能力」を発揮しているということは、啓蒙時代の教育理念がすべてまちがっているということを示している。

この選択能力が「倒錯している」のは、社会構造に支えをみいだすことがほとんどないからだ。つまり、それが日々再生産し強化すらしている「生活チャンスの階級格差」は、(経済、愛、政治、法、スポーツ、科学などのための)機能領域にしたがって編成され、もはや階層(貴族/庶民)によってハイアラーキカルには編成されていない社会においては「いかなる社会的機能も」果たしていない。そうした格差は、機能上よけいな「副産物」なのだ。というのも「それ自体」では、機能システムという近代の秩序は上位のない秩序であり、事実上も規範上も優先順位のない社会的包摂によってつくられているからだ。

誰もはじめから、誕生、宗教、その他なんであれ、それらを理由として排除されることはない。人権と民主主義はこのことをまさに表現しているプログラムだ。それらは大量の社会的派生コストを民主的法治国家によって抑えるということについては、かなり実りあるものだった。しかしこれは今日まで地域的に区切られたプロジェクトでありつづけてきた。しかし一方で、分出した機能システムの処理領域ははじめから地球全体に及んでいたのだった。

このことは、遠隔コミュニケーションと世界大の航空交通の時代にあっては、どの視聴者にとっても明白になってしまっている。経済も科学もベルギーとルクセンブルクの国境で終わることはないし、大洋が社会を分け隔てるのではなく一つにするということは、すでにヘーゲルが知っていた。諸機能システムの類似性は、とっくにどこにおいても地域的差異より大きくなっている。法ですら、国家の立法府から切り離され、中心的な立法府や中心的な裁判権なしでもひとりでに展開している(商人法[Lex mercatoria]から労働法を経てスポーツ法に至るまで)。国家は、連邦憲法裁判所のどの判決にも反して、もはやすでに以前からこの事態をコントロールできていない。政治は単に他の部分システムに隣接する一つの部分システムにすぎないために、ヘーゲル法哲学の根本的な区別、つまり国家と社会の区別はその対象を失ってしまった。

これはことほぐべき好機なのではない。グローバリゼーションは民主主義と法治国家にとってはっきりと負担になっているのだ。たしかに今日、以前のように権利のないよそものとして扱われるのではないかと心配する必要もなく世界中を訪れることができる。しかしこの果実を楽しむためには、お金、パスポート、最低限の教養などが必要である。端的にいえば、所属していなければならない。

そしてまさにこの問題を、諸機能システムからなる世界社会は手持ちの道具を使って解決することができない。それでも、システム理論はすくなくとも傷口へ手を当ててくれる。取り込まれているもの(包摂)に出くわすところで、締め出されているもの(排除)について問いただすのだ。

調整されない数多くの盲目的な処理によってただ押し流されていく世界社会のなかで、この問題が諸システムの境界上に積み上げられているということを、システム理論は捉えている。地球規模の経済危機のことだけをいっているのではない。「機能分化社会という使いふるされてしまったイメージ」の危機は、幾百万の人間の身体があらゆる社会的コミュニケーションから排除されているということに劇的に表現されている。

インド、ブラジルあるいはアフリカで、またニューヨークにいくつもある街角でも、ある機能システムから脱落してしまっている者にとっては、すぐに他の機能システムすべてが手の届かないものになってしまう。彼の声はもう聞き届けられない。

身体の過剰な「生産」にとっては「機能分化の直接の帰結」が問題となっている。仕事のない者には、お金や身分証明書や子どもを学校へ送る機会などもない。「包摂の領域では人間が人格とみなされる一方で、排除の領域ではほとんど身体次第であるようにみえる。シンボルを介した回帰によって文明化されることなく、物理的暴力、セクシャリティ、そして基本的で衝動的な欲求充足が解き放たれ直接に問題となるのである」。

出口はあるのだろうか。ルーマンにとってはおおよそあらゆるものが、理論さえも、一つの「システム」であるということを知らなければならない。独自の処理という点で、閉じた諸社会はシステムである。システムはそれに因果的に作用する環境からのシグナルを理解することができない。

しかし、システムは外からやってくる撹乱によって刺激されうる。刺激されうる限りで、システムは学ぶことができる。学ぶことは「いつでもどこでも」無計画に生じている進化をうまくいくようにする唯一のチャンスである。もちろん、ルーマンは倦むことなく繰り返すことだろう。コミュニケーション・システムや意識システムは認知領域においてのみ学ぶことができるのだと。そして、それに反して規範があるとすれば、矛盾する現実に抗して保たれなにによっても刺激されないときだけ、それが規範として生じるからだと。

この命題は繰り返されることによって改善されるわけではない。規範的な確信が衝突し懐疑主義的反省の潮流に巻き込まれるところではどこでも、規範は刺激されてしまうだろうから。それでもそこから解放をめざす学習は可能になるし、その光の中では、盲目の進化がまだ「自由の意識における進歩」(ヘーゲル)であるかのようにみえるかもしれない。

規範的なもの、倫理や道徳がルーマンの盲点であるのは偶然ではない。社会についてのシステム理論は、そのあまりに強調されすぎといってもいいくらいの完全さの姿をまとった瞬間に、観察者を観察する観察者という徹底的につきはなした(desengagiert)ポジションへと退いてしまう。しかし、システム理論によってなされうるとルーマンが信じている「本当に根本的な社会の批判」は「観察する理性」(ヘーゲル)への制限によって可能になると同時に否認されてしまうのだ。

残っているのはロマン主義的イロニーである。しかしそれをまったく信用しないかのように、ルーマンは結局、実践と歴史から撤退するというまさに旧きヨーロッパのストア主義によりどころを得ようとしている。

そのようにして、システム理論はしまいには生物学的進化論の視点をわがものとするのだ。「それはおちつきをはらってシステムの創発と破壊を受けとるのである」。

2010年12月12日日曜日

世界精神なきヘーゲル

ルーマン逝去当時、独誌『シュピーゲル』に載った追悼記事の私訳。
既出だったらごめんなさい。

けっこう意訳してるし誤訳もあるかと思いますので、原文参照したい方は下記リンクへ
Hegel ohne Weltgeist (Spiegel, 47/1998)



世界精神なきヘーゲル
ニクラス・ルーマン 19271998

ズーアカンプの赤いレンガをまだ本棚にしまってある68年世代も多い。その本は『社会の理論か社会テクノロジーか』と題されている。そこでは、当時の知の巨人(ゴリアテ)であったユルゲン・ハーバーマスとニクラス・ルーマンという名のほとんど無名の社会学者がを交わしていた

ビーレフェルトのダヴィデは闘いの勝者となった。ハーバーマスのいう「支配から自由な討議」は「理想的発話状況」とか個人を誇る概念ともいわれたが、左派はそれをもちいて荒々しくなってしまった近代を見通そうとしていた。ルーマンは、機能分化社会という観点から時代遅れであると冷静に叱責し、彼らをオフサイドへと追いやった。そして当時、左派は時代の空気を統べる理論的立場をついに失ってしまったのだった。

さまざまなアカデミック・キャリア-優秀な法学徒、行政学の講師、行政官僚、アメリカ留学、一セメスターでの博士号と教授資格の取得-を経てきた彼は、造詣の深い著作を書きつづけた。ヘーゲル賞受賞者であるルーマンは、30年にわたって社会学的省察のために身を捧げた。

世界精神たるヘーゲルを広範なテーマへと彼は結びつけた。すなわち、宗教、科学、教育、経済、政治、法、愛、さらにはマスメディアまでも、ビーレフェルトの教授は探求したのだった。しかしヘーゲルと違ってルーマンにおいては、さまざまな層に切り裂かれてしまった世界が世界精神につき動かされた弁証法によって結びつけられることはない。

ルーマンは政治が万能であるという幻想に別れを告げているし、本棚に眠っている倫理もそうであることを示している。善と悪という区別をもって処理する際には、リューネブルク市の息子である彼が賢しくみてとったように、善が本当に善いものなのかどうかは知られない。道徳は最終的には基礎づけられえないのである。

社会の機能システムにはそれぞれ独自の法則が含まれている。経済では支払うか支払わないかに意味がある。政治では権力があるかないか。メディアにおける情報循環では新しいかそれほど新しくはないかが。愛ですら愛しあう者たちのものではない。愛は独自のパターン、たとえばある時代の愛の理想像に従っているのだ。

経済、政治、あるいはメディアのような社会の中の特殊な領域でうみだされてきたものによって、トートロジーに聞こえる法則が安定に保たれている。いわく「システムは、みずからを成り立たせている要素によって、みずからを成り立たせている要素を産出する」。

知的なビーズ遊びにすぎない? まったく違う。たとえば、支払うことによって今度は代金の受け取り手が支払ったり支払わなかったりし、そしてその決定をふたたび第三者へと向けるということが引き起こされるのである。

あるいは市場をとりあげるなら、それは経済システムの構成部分であるが、同時に参与者たちにとってはある種の環境である。参与者たちは価格に合わせるわけだ。システムは内部に外部世界をうみだしたのである。経済に含まれない世界の出来事に対しては、システムの中でそのシステムのもつ手段によってのみ反応が生じうる。そのようにして把握されることのないざわめきは消え去っていく。

ルーマンを読むのは大変なことだ。その苦労が報われるであろうことは、次のような予告編からもわかる。「真実のあとは広告である」と彼のメディア研究にはあるし、「女が愛するときは正しく愛しているといわれる。男はその間でなければならない」と彼の『情熱としての愛』では述べられている。

「今世紀でもっとも重要な社会学者」(『フランクフルター・アルゲマイネ紙』)の影響力は実際にはどれほど大きかったのだろうか? そしてどれほど大きいのだろうか? 確かなのは、一方にインスピレーションを与えられないつまらない社会学があり、他方に体系的でないおしゃべりに終始しているエッセイばかりの哲学がある時代の中で、今やもう彼の声が聞けなくなってしまったということである。
『シュピーゲル』47 / 1998

2010年12月1日水曜日

Solidarity Through Anxiety

東京都青少年健全育成条例改正案についての一昨日のニコ生の感想


マンガ・アニメの表現規制推進派と反対派の戦線は2つあると感じた。

1つは、法令としての是非をめぐる戦線。
1つは、不安の解消をめぐる戦線。

前者に限っていえば、規制反対派の方が分がある。


でも、より本質的な問題は後者にあるように思える。
規制推進派のロジックに次のようなものがあるという。


「自分はこのような作品をみても大丈夫だが、おかしな人がみたら犯罪に走るかもしれない。だから規制すべき」


ロジックというよりほとんど感情だ。
根拠は何もない。
それどころか、個人の尊厳と平等を尊ぶ近代社会の基本的価値観を、屈託もなく無視してしまっている。


だけどこのロジックならぬロジックには、現実に説得力があるわけだ。
だから、「推進派は感情的だ」とかいってしかめ面で非難しても意味がない。

どうして説得力があるのか、を考えなければいけない。


どうしてなのか?


マンガ・アニメの領域に限っていうなら、二次元文化についての無理解・誤解や、
反道徳的内容をもつものとそうでないものとのゾーニングの不徹底が挙げられるだろう。
もしそれだけなら、

無理解や誤解にはコミュニケーションと説得を、
ゾーニングの不徹底には、システムの改善を、

対処として行えばよいということになる。

それも、一理ある。


だけど本当にそれだけだろうか?


この問題の根本は、推進派が(反対派も)「不安によってつながっている」というところにあるのではないだろうか。

「不安」に合理的な根拠はない。
根拠がないからこそ不安は生まれる。

根拠がないから、合理的な対処で不安を解消することはできない。
むしろ、対処をするということ自体が、「やっぱり」と不安を強くすることにつながることすらありうる。

「おかしな人がみたら犯罪に走るかもしれない」の「かもしれない」は、合理的な対処で消えてしまうことはないのだ。


現代社会の特徴としてよく「不安による連帯」ということがいわれる。
現代人は「不安」を媒介にして、不安の元とされるものを隠蔽・回避・攻撃するためにつながる。

社会は「  」になっているのではないか?
社会には「  」な人間が増えているのではないか?
だから、どうにかしてくれ。

「  」の中には否定的なものなら何でも入れられる。
右でも左でも。犯罪でも汚染でも。売国奴でも無能でも。ロリコンでもモンペアでも。


現代社会は共約できないほど多様な価値観から成りたっている。
だから、社会全体をまとめあげるような価値観はありえない。
それに不安を感じて、自分の価値観を守るためにつながる。

違う価値の認識 → 不安 → 不安による連帯 → 連帯どうしの衝突 → 違う価値の認識

現代は、このような循環がどこでも生じているし、いつでも生じうる遷移状態にある。

そう考えると、
今回の表現規制問題は、不安のスパイラルが社会をつきやぶって、直接、権力(法令)に解決を求めたケースとして理解できる。

でもこの場合、権力は麻薬だと思う。

一度使ったらとめられなくなるが、使えば使うほど社会そのものの活力を奪ってしまう。
そうなればなるほど、ますます「不安の連帯」たちが激しく衝突しあうようになるだろう。


じゃあ、現代社会はどうやって不安と向きあえばいいのだろうか。
答えは・・・まだ、よくわからない。