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な ま え:TAKAHASHI Akinari
いどころ:Kyoto
なりわい:graduate student
ま な び:sociology or social systems theory

2010年12月1日水曜日

Solidarity Through Anxiety

東京都青少年健全育成条例改正案についての一昨日のニコ生の感想


マンガ・アニメの表現規制推進派と反対派の戦線は2つあると感じた。

1つは、法令としての是非をめぐる戦線。
1つは、不安の解消をめぐる戦線。

前者に限っていえば、規制反対派の方が分がある。


でも、より本質的な問題は後者にあるように思える。
規制推進派のロジックに次のようなものがあるという。


「自分はこのような作品をみても大丈夫だが、おかしな人がみたら犯罪に走るかもしれない。だから規制すべき」


ロジックというよりほとんど感情だ。
根拠は何もない。
それどころか、個人の尊厳と平等を尊ぶ近代社会の基本的価値観を、屈託もなく無視してしまっている。


だけどこのロジックならぬロジックには、現実に説得力があるわけだ。
だから、「推進派は感情的だ」とかいってしかめ面で非難しても意味がない。

どうして説得力があるのか、を考えなければいけない。


どうしてなのか?


マンガ・アニメの領域に限っていうなら、二次元文化についての無理解・誤解や、
反道徳的内容をもつものとそうでないものとのゾーニングの不徹底が挙げられるだろう。
もしそれだけなら、

無理解や誤解にはコミュニケーションと説得を、
ゾーニングの不徹底には、システムの改善を、

対処として行えばよいということになる。

それも、一理ある。


だけど本当にそれだけだろうか?


この問題の根本は、推進派が(反対派も)「不安によってつながっている」というところにあるのではないだろうか。

「不安」に合理的な根拠はない。
根拠がないからこそ不安は生まれる。

根拠がないから、合理的な対処で不安を解消することはできない。
むしろ、対処をするということ自体が、「やっぱり」と不安を強くすることにつながることすらありうる。

「おかしな人がみたら犯罪に走るかもしれない」の「かもしれない」は、合理的な対処で消えてしまうことはないのだ。


現代社会の特徴としてよく「不安による連帯」ということがいわれる。
現代人は「不安」を媒介にして、不安の元とされるものを隠蔽・回避・攻撃するためにつながる。

社会は「  」になっているのではないか?
社会には「  」な人間が増えているのではないか?
だから、どうにかしてくれ。

「  」の中には否定的なものなら何でも入れられる。
右でも左でも。犯罪でも汚染でも。売国奴でも無能でも。ロリコンでもモンペアでも。


現代社会は共約できないほど多様な価値観から成りたっている。
だから、社会全体をまとめあげるような価値観はありえない。
それに不安を感じて、自分の価値観を守るためにつながる。

違う価値の認識 → 不安 → 不安による連帯 → 連帯どうしの衝突 → 違う価値の認識

現代は、このような循環がどこでも生じているし、いつでも生じうる遷移状態にある。

そう考えると、
今回の表現規制問題は、不安のスパイラルが社会をつきやぶって、直接、権力(法令)に解決を求めたケースとして理解できる。

でもこの場合、権力は麻薬だと思う。

一度使ったらとめられなくなるが、使えば使うほど社会そのものの活力を奪ってしまう。
そうなればなるほど、ますます「不安の連帯」たちが激しく衝突しあうようになるだろう。


じゃあ、現代社会はどうやって不安と向きあえばいいのだろうか。
答えは・・・まだ、よくわからない。

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